ビューロー側はコミンテルンの指導もあり
ビューロー側はコミンテルンの指導もあり1925年1月共産党再建の方針を決定し、1926年12月共産党を正式に再建した(第二次共産党)。コミンテルンが1927年に決定した日本共産党綱領(いわゆる27年テーゼ)は福本とともに山川をも批判し、両者の対立は鮮明になった。荒畑も、第一次共産党以上のセクト主義に反発してビューローを離れ、第二次共産党に参加せず山川と行動を共にした。山川らは自己の拠点として1927年12月雑誌『労農』を創刊し、労農派が形成された。
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労農派という名称について、山川は「『労農』の編集同人は「労農派」と呼ばれました。これはもちろんこちらでそう名乗ったわけではなく、一体「派」というものをつくる考えもなし、「派」と呼ばれることは不愉快だったのですが、そういう呼び名をつけられてしまったわけです。」(『山川均自伝』)と述べている。
なお、日本共産党は1928年2月山川均、荒畑寒村の除名を決定したが、労農派側では山川らは第二次共産党には参加せず自ら決別したから除名決定は無意味としている。