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戦後処理は明智光秀に任せ

戦後処理は明智光秀に任せ、織田信長は翌13日午前九時頃に、精鋭の馬廻り衆を従えて比叡山を出立、上洛していった。その後三宅・金森の戦いでは近江国の寺院を放火していく。延暦寺や日吉神社は一旦消滅し、寺領、社領はことごとく没収され明智光秀、佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀に配分した。この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各与力らがこの地域に派遣し治める事になる。特に明智光秀と佐久間信盛はこの地域を中心に支配することになり、明智光秀は坂本城を築城することになる。
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山門再興判物/比叡寺蔵一方延暦寺の方は、正覚院豪盛らがなんとか逃げ切ることが出来、甲斐国の武田信玄に庇護を求めた。武田信玄は彼らを保護し、延暦寺を復興しようと企てたが、実現をみるに至らなかった。その後本能寺の変で織田信長は倒れ、明智光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めた。その後羽柴秀吉に山門の復興を願い出たが、織田信長の恨みの深さゆえ、簡単には許されなかった。山門復興こそ簡単には許さなかったが、詮舜とその兄賢珍の二人の僧侶を意気に感じ、それより陣営の出入りを許され、軍政や政務について相談し徐々に羽柴秀吉の心をつかんでいったと思われている。

そして小牧・長久手の戦いで出軍している羽柴秀吉に犬山城で、後重になる要請により天正12年(1584年)5月1日に、正覚院豪盛と徳雲軒全宗に山門再興判物を発し、造営費用として青銅一万貫を寄進した。

比叡山焼き討ちの約13年後のことであった。

延暦寺の発掘調査
織田信長画像/浄厳院蔵昭和後期に大講堂の建替え工事や奥比叡ドライブウェイの工事に伴う発掘調査が断続的に行われ、比叡山焼き討ちに関する考古学的再検討が行われた。

考古学者である兼康保明の「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」(『滋賀考古学論叢』第1集)によると、明確に織田信長の比叡山焼打ちで焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、他の場所でも焼土層が確認できるのが、この比叡山焼打ち以前に廃絶していたものが大半であったと指摘している。また遺物に関しても平安時代の遺物が顕著であるとしている。発掘調査地点は、比叡山の全山にわたって調査されたわけではなく東塔、西塔、横川と限定されているが、比叡山焼打ち時には、比叡山に所在していた堂舎の数は限定的で、坂本城の遺物に比較して16世紀の遺物は少ないことから、『多聞院日記』に記載されているように、僧侶の多くは坂本周辺に下っていた。従って『言継卿記』や『御湯殿の上の日記』に記載されている、寺社堂塔五百余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶男女三千人がひとりひとり首をきられて、全山が火の海になり、9月15日までに放火が断続的に実施され、大量虐殺が行われたという説は、誇張が過ぎるのではないかと指摘している。『信長の天下布武への道』では「殺戮は八王寺山を中心に行われたようである」としている。

兼康は、これまでとは視点を変えて「織田信長の人物像をはじめとする戦国時代の歴史観を再構築しなくてはならない時期が訪れつつある」と結論付けている。

この戦いのきっかけは、織田信長が美濃国にあった延暦寺の山門領を押収したところから始まり、延暦寺側が浅井長政、朝倉義景連合軍に味方した事から、徐々に双方の感情が高まっていったと思われている。

明智光秀書状/個人蔵右書状は、元亀2年(1571年)9月2日付となっており、比叡山焼討ち直前に地元の国人和田秀純に宛てた明智光秀の直筆書状で、織田信長軍に味方してくれた礼、恩賞は望み次第、雄琴城に弾薬、兵士を補給する事、またあらぬ疑いを避けるため人質を差し出すように細かく指示を出し、織田信長軍の湖東の進軍ルートが詳しく記載されている。柴田勝家、佐久間信盛らが志村城、小川城を攻城している中、一方の明智光秀は地元国人衆の懐柔工作を実施し、比叡山焼き討ちの準備を整えていたのではないかと考えられている。
比叡山は戦略上の重要な地域ではあったが、大規模な僧兵隊が駐屯していたわけではなく、織田信長の眼前の敵ではなかったと思われている。第一次信長包囲網が形成しつつある中、なぜ比叡山を攻撃したのか、『図説織田信長』によると兵法の常道ではなかったかと解説している。束になって攻撃されると、さすがの戦の天才と言われた織田信長でも勝ち目は無いので、相手の最も弱いところを一つずつ潰していく「各個撃破戦法」をとる事になったのではないか、と記載している。
『信長公記』に
“ 山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く

と記されており、1570年(元亀元年)の『多聞院日記』にも「修学を怠り、一山相果てるような有様であった」とある事から当時の延暦寺はかなり荒れていた。天下に君臨し、時には天皇もしのぐ権力を振りかざし傍若無人の振る舞い、仏法を説く事を忘れた、うつつを抜かす教団に織田信長が天に代わって鉄鎚を下す、という側面もあったのではないかと考えられている。

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2009年01月28日 18:04に投稿されたエントリーのページです。

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