1861年、サルデーニャ王国によるイタリア統一(リソルジメント)により成立し、サルデーニャ王のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が初代国王となった。
王国統一後、軍隊が解体され、多くのものが職を失ったことに加え、統一国家に理想を描いていたものや罪の減免を約束されて戦争に参加した者の希望が容れられなかったので国内は安定しなかった。彼らはクロッコに代表される匪賊となって王国に反旗を翻した。匪賊は1861年のクロッコによるメルフィ侵攻から本格化するが、地主からの略奪を主とする活動は民衆から歓呼の声を持って迎えられた。1862年のガリバルディによるアスプロモンテの変を機とした戒厳令や、それに続く1863年のピカ法の制定により匪賊に対する圧力が高まる。苦しさから民衆を襲うようになった匪賊は次第に支持を失っていき、1864年に内通者が出て情報を漏らしたことから、一気に収束へ向かっていく。
1865年、トリノからフィレンツェに遷都。翌年の普墺戦争(第3回イタリア独立戦争)ではプロイセン側として参戦した。オーストリア領土のうちトレンティーノとトリエステを残してヴェネト(ヴェネツィア)を併合する。1870年に起こった普仏戦争によりローマ教皇領を守護していたフランス軍が撤退するとこれを占領し、翌年ローマへ遷都する。また同年、教皇保障法を制定し、その地位を保障しようとするが教皇側が拒否、国政への不参加を呼びかけるなど、イタリア王国とローマ教皇の対立構図が形成された。なお、この対立はムッソリーニ政権時にラテラノ条約(1929年)が結ばれるまで続いた。
その後、他の欧米列強同様植民地獲得を模索し、帝国主義政策を展開した。1893年には、アフリカ大陸で唯一の独立国であったエチオピアに侵攻したが、フランスの支援のもとに高度な近代化に成功していたエチオピア軍を侮り、寡兵にて挑んだことからアドワの戦いで敗北を喫した(第一次エチオピア戦争)。1911年にはリビアの領有権を巡ってトルコと争った末に勝利を収め(伊土戦争)、1912年に同地を併合して念願の植民地を獲得した。
第一次世界大戦では、領土問題(未回収のイタリア)でオーストリアと対立していた為に三国同盟(1882年)を破棄して仏伊協商(1902年)を理由に局外中立宣言を出した。暫くは戦況を静観していたが、1915年にロンドン秘密条約を結び「未回収のイタリア」及びイストリア、ダルマチアの割譲を条件に連合国側として参戦した。天然の要害たるアルプス山脈に立てこもるオーストリア軍に対し、イタリア王国は地形的不利を補う為に多くの新規兵を徴兵して戦いを挑んだ。無数に亘る正面突撃によってイタリア王国軍は夥しい数の戦死者を出すが、少しずつ戦線を切り開いてゴリツィアなどの重要拠点を制圧する。オーストリア軍の救援に訪れたドイツ軍の新戦術(浸透戦術)によって苦戦を強いられつつも、最終的には押し返して連合国の勝利に貢献した
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